【vol.49】ときめきの富士|海へ朝一番 湘南三浦半島より
峰の白雪を照らした
紅富士の時を過ぎて、
海に光が廻る頃漁船が通る。
あれは裕次郎灯台。
朝陽を浴びて、
行く手は三浦の沖の相模灘。
さあ釣って来るぞと思いは弾む。
今日も元気だ。富士山見えた。
富士山が教えてくれた幸運の法則 その9
あ、ふじさんだ。の巻
日本人には富士山が大好きという思いがDNAにしっかり刻まれています。そして富士山が存在する意味を感じた時から変化が訪れます。気付いた人に幸運が訪れるのです。
富士山を見ると「あ、富士山だ!」と声に出します。ここに幸せのキーワードが隠れています。
第2回〈ふ〉
Sさんは100人以上の従業員を抱える部品工場の社長でした。人のご縁を大切にされ自分が出来る最大の事を、ご縁が出来て共鳴した人に支援して来ました。
今から16年前に初めてお会いした時に肝胆相照らし、早朝に社長達が学習するセミナーにも紹介されて、沢山の人との繋がりを頂く機会も与えて下さいました。
その会社が取引先の倒産の余波で連鎖倒産しました。会社は無くなり涙を呑んで従業員を解雇せざるを得なくなりました。無念の涙でした。
しかし泣き言も恨みも言いませんでした。そして自分に言い聞かせました。つぶれない会社はえらい。私には予想外の困難を乗り切る力が無かったんだ。肝に銘じよう。俺は必ず再起するぞ。
Sさんには多くの友人と支援者がいます。皆が心配している時、彼は静かに横浜から姿を消しました。仲間と一緒に居る事が辛かったと思います。ここにいてはいつも哀れみと同情の眼の中にいる事になる。
3年後、連絡が有りました。横浜に戻って会社を起こしたと。太陽光発電の建築業に変身しました。数年後、軌道に乗った会社を後継者に譲り、暫く音信が途絶えた頃に電話がありました。
「ロッキーさん、俺今度、町長になるからね。必ずトップ当選するから。見ててよ。」
彼は生まれ故郷の北海道のある町で立候補しました。予想通りというか、信念確信の通りトップ当選です。熱血清心な人が町長になって町が変わり始めました。明るく住み良い町づくりを目指し、古い因習や業者との癒着を排してどんどんアイデアが出ます。
「全国で一番住みやすい町にする」。町長の人柄と方針に優秀なブレーンも集まり、皆意欲に燃えて一期目を終えようとしていた頃、彼は旧態依然グループから揚げ足取りのような誹謗中傷を受けて辞職に追い込まれました。
庁舎の中には以前の体制やグループとの関わりが強い人もいて、失脚させる落とし穴を作られて、虎視眈々と狙われていました。
彼は生まれ故郷を去りまた横浜に戻っています。町長を辞してからもう2年が過ぎました。町はまた昔ながらのグループが闊歩する田舎の町に戻ろうとしています。
いつも連絡が有って時々ホメてくれます。「やっぱりロッキーさんのときめきの富士はいいね!。どんな時でも勇気が出るし、前に進む気持ちが強くなる。」
彼の信念を貫いている「不屈の闘志」は信条である「前後裁断」です。それは沢庵和尚の教え。過去の憂いや将来の不安を断ち切り、今に生き、今を生き切る事です。そしてSさんの富士山の様に堂々と生きる、日本一になる信念は不変です。
Sさんは今度また北海道に戻り、志に共鳴する仲間が待っている故郷の町で、太陽光発電の事業を興します。
あ、ふじさんだ!の「ふ」。それは志高く夢にチャレンジする人共通の「不屈の闘志」ですね。
ときめきの富士 写真家 ロッキー田中
誰も見た事のない「ときめきの富士」を生涯に99作世に出すオンリーワンの写真家。
離れた東京で富士山・空・雲・光の表情を読み、山が呼んでくれたら逢いに行く。
作品は浮世絵の様な構図、色、究極の美に満ち富士山のメッセージが写っているとされる。
『現代の北斎』とも称され、平成15年に文部科学大臣賞受賞。富士写真家連盟特別顧問・講師。
NPO富士山を世界遺産にする国民会議223フェロー。
人々との喜びの共感を生き甲斐とし、サロンには全国から訪れる人が絶えない。