【vol.43】ときめきの富士|夜明到来 ~初冬の朝 午前6時48分 精進湖より~
今朝は素晴しかった。
夜明けの前から湖に水蒸気が漂っていた。
まるで稜線から光が届くのを待ちかねる様に、
水蒸気は靄となり、湖霧になり、いのちの焰と
なって踊っていた。
今朝のもう一つの宝物は水平線だ。
夜明には滅多にない一直線の水平線の上に
湖霧が踊っている。
キーンと張りつめた空気、
鏡になった湖面に映る美しい逆さ富士。
胸に迫る朝の情景になった。
夜明は近い。陽はまた昇る。
やがて輝く朝陽がやって来る。
感謝無限大 ロッキー田中
富士山が教えてくれた幸運の法則 その3
道の掃除のおじいさん
ある朝、午前五時半頃に東京の五反田を走っていました。するとこんな早い時間に道端にしゃがんで掃除しているお爺さんを見かけたのです。その時は通り過ぎましたがそれから三週間後の早朝に、もう一度お爺さんを見かけました。
車を降り
「朝早くからご苦労様です。」
と声をかけました。話をしている内に近くのビルのオーナーと分かりました。昔からこつこつと仕事をされ、ようやく念願のビルを建てた後にバブルがはじけ、周りにはうちより良いビルが建って、テナントの会社が出て行ってしまった・・・・・。
ある人に相談したら
「原点に戻りなさい」
と諭された。原点とは何だろう・・・ 。
「そうだ!私は何も出来ないけれど掃除なら出来る。道のお掃除から始めよう。」
そうしてこのオーナーは早起きして自分のビル周辺の道の掃除を始めたそうです。お掃除を始めて二カ月後に私が見かけたのです。
丁度良い機会だから相談しました。
「私はこの辺にサロンを作りたいんですがどこか空いてる場所をご存じ有りませんか?」
「それじゃ直ぐそばに私の小さいビルが有るので見てみませんか?もう直ぐ一階の駐車場の会社が出ますから」
それは正に天の配剤とでも言うべき場所でした。ビルの一階、間口三間、奥行き八間半、天井の高さは三・六メートル、しかも、駐車場という登録でしたからオフィスよりも格安の料金です。
それが一九九九年の初冬。東京にいる看板デザインの兄がシャッターに「ときめきの富士」を描きました。
正月明けにはときめきの富士アートサロンがオープンしました。ビルの一階の大きなシャッターに幻想的な「黄金の海」、都会に出来た異空間=大江戸富士山名所の誕生です。
私は写真スタジオを造るつもりはありません。人々が集うサロンを造り、そこにギャラリー機能とアトリエの要素とショップを造るのが夢でした。遂にそれが完成しました。
二カ月後、奇跡が起きました。がらがらだった九階建てのビルが入居するテナントで埋まったのです。
一階から九階まで富士山の「氣」が入ったと言ってくれる人もいます。でも私はオーナーの「積善陰徳」を神様が喜ばれたからだと信じています。
あれから十二年、何の変哲もないビルは、一度としてテナントが空いた事はありませんでした。サロンの前の街路樹の植木達は他の場所よりも勢い良く葉を付けています。サロンはいつも全国からのお客様で賑わっています。
八十四才だったオーナーは顔も背格好もずっと前に逝った父によく似た人でした。そして数年前に逝ったオーナーが、にこにこと天井の角から見守っているのをいつも感じています。
ロッキー田中さんの「ときめきの富士」ご紹介にあたって
富士山の呼ぶ声を聞いて、誰も見たことのない「ときめきの富士」を世の中に紹介し続けているロッキー田中さん。
ぶんぶん通信27号の対談コーナーにご出演頂いたご縁から、その素晴らしい作品の数々をこの誌面でご紹介頂ける運びとなりました。
多くの雑誌で「幸福を呼ぶ富士山」として紹介されているロッキー田中さんの「ときめきの富士」。誌面から溢れる「癒しの波動」を、心身の健康にお役立て頂けましたら幸いです。
プロフィール・写真家 ロッキー田中
誰も見た事のない「ときめきの富士」を生涯に99作世に出すオンリーワンの写真家。
離れた東京で富士山・空・雲・光の表情を読み、山が呼んでくれたら逢いに行く。
作品は浮世絵の様な構図、色、究極の美に満ち富士山のメッセージが写っているとされる。『現代の北斎』とも称され、平成15年に文部科学大臣賞受賞。富士写真家連盟特別顧問・講師。NPO富士山を世界遺産にする国民会議223フェロー。
人々との喜びの共感を生き甲斐とし、サロンには全国から訪れる人が絶えない。