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【vol.39】鳴海周平の全国ぶらり旅|東京都 葛飾柴又編


「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。」
 映画「男はつらいよ」の寅さんが生まれ育った東京の下町は、古き良き昭和の時代を思い起こさせてくれる街として不動の人気を保っています。
 初秋の風が心地よい9月下旬、どこか懐かしい街・葛飾柴又を訪れてみました。

「寅さんのように気ままに生きられたらいいなぁ。」

 そう思いながら映画を観た方も多いのではないでしょうか?

「いやぁ、私もその一人です(笑)。」

 そう言って葛飾柴又の名所「寅さん記念館」を案内していただいたのは、営業部長の山本吉昭さん。

 日本人の心の故郷である「寅さん」のすべてがわかる、という日本で唯一の記念館で、知られざる寅さんの横顔などを教えていただきました。

「寅さんは少年時代からガキ大将でした。東京大空襲なども経験し、16歳で家出、放浪の末テキ屋稼業に入ります。そして全国各地をまわること20年。久しぶりに故郷・柴又へ帰るところから物語が始まるんです。」

 館内「わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です」コーナーでは、寅さんが少年時代を過ごした昭和30年代の帝釈天参道の街並みが、精巧な模型で再現されています。遠近法を用いた街並みを見ていると、本当に住人になったよう!!

 模型の街並みの中には、現在も営業を続けているお店もあるそうです。

 館内には他にも、映画で実際に使用されたセットなどが撮影時そのままに展示されています。

「ここは寅さんがフラッと帰ってくる、おいちゃん、おばちゃんの住居兼お店『くるまや』です。映画の撮影は大船の撮影所でおこなわれていましたが、その時のセットをそのまま移設しました。天井には照明さんや音声さんなどのスタッフも、当時の撮影現場そのままに再現されています。」

 映画そのままの光景に、店の入り口で思わず「おいちゃん…」と言ってしまいそうになりました(笑)。

 中に入ると映画で何度も目にしたテーブルや椅子、メニューなどがそのまま設置されています。だんごを作る調理場も完備されていて、いつでも営業ができそうです。

「実際、注文をしようとしてずっと座っている方もいらっしゃるんですよ(笑)。スタッフが通りかかると『だんご1つちょうだい!!』なんて声をかけられたりして…。」

 館内には他にも山田洋次監督が使用していたメガホンやデッキチェアー、寅さんが身に着けていた衣装や持ち歩いていたトランクなど、数々の貴重な品が展示されています。

「山田洋次監督は、情緒あふれる下町を求めて都内を歩き尽したそうです。ところがなかなかイメージどおりの場所が見つからない。半ばあきらめかけていた時に辿り着いたのが、ここ葛飾柴又でした。

 私はこの街の出身ではありませんが、昔から『生まれも育ちも葛飾柴又です…。』と聞いているせいか、なぜか郷愁を感じるんです(笑)。」

 私も今回初めて訪れたのですが、まったく同感です!!(生まれも育ちも北海道なのに(笑)…)

 思えば日本人はもう40年もこの映画を楽しんできたのですから『心の故郷』として、心のどこかに刻み込まれていても不思議ではありませんよね。

「帝釈天参道には『くるまや』のモデルになった和菓子店もあります。古き良き時代を思い起こさせてくれる街並みを、どうぞゆっくりと楽しんでいってください。」

 山本さんと楽しく「寅さん談義」を交わした後、情緒あふれる帝釈天参道へ。

 柴又駅前から帝釈天へと続いている約200メートルの参道には、草団子やせんべい、佃煮やウナギ料理などのお店がずらりと並んでいます。

 どのお店も少なからず「男はつらいよ」に関わったことがあるという参道の商店街ですが、中でも関係が深いのが「くるまや」のモデルとなった「木屋老舗」さん。

 6代目社長の石川宏太さんは、柴又まちなみ協議会理事長や柴又神明会会長として葛飾柴又の魅力をいっそう引き出すことに成功した立役者でもあります。

「このあたりが栄えだしたのは380年ほど前、江戸時代の後期だと言われています。農村だった柴又に、日蓮宗・題経寺が創建され、後の改築工事で帝釈天像が描かれた『板本尊』が発見されたことから、霊験あらたかなお寺として関東一円の参拝者が押し寄せるようになりました。

 当時の農家はこの辺りでとれる葛西米を原料にして団子やせんべいを作ったり、江戸川で捕れるウナギなどを料理したりして、縁日のある時だけ露店を出す『半農半商』というスタイルで営業をしていたようです。」

 参道が形成されてきた歴史には、帝釈天へお参りに来た人たちの様々な想いが刻まれているんですね。

 そして昭和44年に、映画「男はつらいよ」が始まります。

「山田洋次監督に『どうして柴又なんですか?』って、尋ねたことがあるんですよ。そうしたらね『先ず言葉のゴロがいい(笑)。そして何より昔の街並みが残っているのがいい。』とおっしゃるんですね。

 この辺りは三方を江戸川、金町浄水場、農家の畑で囲まれていたため、街としての発展からはずっと取り残されていたんです。それが良かった、と監督から教えていただきました。」

 映画の撮影中はお店の2階がほぼ撮影拠点となっていた、という木屋老舗さんならではのエピソードも、とても興味深いものがあります。

「役に入っていない時の渥美清さんは、それはもう静かな紳士でした。目立つことが嫌いで、ここへもずっと電車で通っていたんです。ところが衣装を着けるとすっかり寅さんになってしまう。あの恰好のままで何度も店先に立ってくれました。『お客さん、美味しい団子だよぉ。』なんて接客までしてくれて(笑)。お客さんはもうビックリですよね。何せ、寅さんが団子を売っているんですから(笑)。

 渥美さんの気配りは本当に細かくて、サービス精神も旺盛。私たちもたくさんのことを学ばせていただきました。」

 1995年、それまで40年間に亘って愛されてきた人情喜劇の名作が48作目をもって終了。柴又にも少しずつ変化が訪れました。

「信仰の街だった柴又が、映画の街になってからは3倍の人出になりました。それまで手作りでおこなっていた団子やせんべい、民芸品などは機械で生産をしなくては追いつかなくなり、生産量もどんどん増えていったんです。ところが映画が終わってからは、徐々にですが人出が減ってきて、この先どうしたらよいのかと思い悩みました。そこで思いきって山田監督に相談してみたんです。そうしたら『柴又は立派な門前町。昔ながらの街並みが何よりの財産なのではないですか。』という答えが返ってきたんです。『ああ、そうか。昔に戻ればいいんだ!!』直感的にそう思いました。」

 それからは「変えない開発」をテーマにした街づくりが始まりました。
 建物の修復も参道のアーチの建て替えも旧来の姿を守る、昔の街並みをそのまま残すことにこだわった街ぐるみの運動です。

「機械で作っていた団子やせんべいも昔ながらの手作りに戻しました。お客さんがたくさん来られた日は売り切れになってしまいますが、それでいいじゃないかと。ただ売ればいい、というのはこの街の文化には似合いませんから。」

 こうした努力の結果、3年ほど前からお客さんが増え、また以前のような賑わいが戻ってきているそうです。

「おかげ様でここの街並みはグッドデザイン賞を頂戴することができました。人情味があって安心、安全な街という嬉しい評価もいただいています。

特にここ数年は若い方が多くいらっしゃいます。時間がゆっくりと流れている感じがいいんだとか。安く遊べるので、給料日前には特に賑わいますね(笑)。そしてのんびりと散策をしながら、ふとあちらこちらにある「寅さん」に気付く。今の若者はここで寅さんを知って興味を持ち、作品を観てくれているようなんです。ずっとお世話になってきた山田監督に、ようやく少し恩返しが出来たかな、と思っています(笑)。」

 地方では過疎化がますます問題になっている昨今ですが、ここ柴又の自治会は少しずつ会員が増え、現在は6、000世帯を超えるまでになっているそうです。

「この参道では、いまだに店舗と住居が一体になっているところが多く、住民同士の交流が頻繁におこなわれています。人と人との繋がりが希薄になっている、と言われる近年だからこそ、余計にこの街の人情味を求める人たちが増えているのではないでしょうか。ここに来ていただくことで、たいせつな何かを思い起こしてくれたら、これほど嬉しいことはありません。」

 昔ながらの情緒あふれる街並みと、そこに住む人々の温かさ。

 数百年の時を経た今でも多くの人々を惹きつけてやまない葛飾柴又は、これからも日本人の心の故郷として、本当に大切なものを思い起こさせてくれることでしょう。

 今回のぶらり旅にあたって、寅さん記念館様、木屋老舗様に多大なる御協力をいただきました。

 どうもありがとうございました。

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