Vol.292 8月 無関心の智慧
無関心の智慧
仏教には「般若の智慧」というのがあるそうです。「般若」はもともと智慧という意味なので「智慧の中の智慧」という感じかもしれません。さて、一般的な知恵とは少し違う「般若の智慧」とは?
「般若の智慧」第三の智慧・無関心の智慧
作家のひろさちやさんは『「損する生き方」のススメ』という著書のなかで「いまの人たちは他人に関心をもちすぎています」と述べて、次のような譬え話を紹介しています。
「大きな池で百人の人が溺れていたとします。そのとき阿弥陀さまは誰から先に救助するか。善人を優先するでしょうか。『NO』です。じゃあ、悪人が先か。これも『NO』なぜかー。だって、考えてもみてください。百人もの人間が溺れているんです。その中で誰がいちばんの善人で、誰が二番目か。そんな査定をしていたら、その間に大勢の人が溺れ死んでしまいます。だから、阿弥陀さまはいちばん自分の近くにいる人から順番に救っていかれるに違いない。その人が善人か悪人か、金持ちか貧乏人か、美人かそうでないか、頭がいいか悪いか、体力があるかないか……そんなことはいっさい関係なく救っていくはずです。(中略)いいかえれば、そういうことには無関心のまま、溺れた人を救っていくのです」
無関心になると、ラクになる
無関心になると、目のまえのことについてジャッジ(判断)しなくなります。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる
「マタイによる福音書」章1〜2節
僕が主催しているお話会では、ここ数年、質問がほとんどありません。
「どっちでもいいんじゃないでしょうか」という答えしか返ってこないということが、どうやら浸透しているようです(笑)。
なんでも、ジャッジ(判断)しなければ、自分自身がラクになります。
「息がしやすい = 生きやすい」という語源説があるように、自然の摂理にかなっているときは、ラクだなぁと感じるもの。
無関心 = ジャッジしない = ラク ということは「無関心の智慧」もまた自然の摂理にかなっているのだと思います。
謙虚に向き合うと、無関心になる
ひろさちやさんは同著で次のようにも述べています。
一例を引けば、キリスト教の擁護論であるパスカルの『パンセ』には、人間がいかに不完全な存在であるかという譬えがいっぱい出てきます。
人間は広大無辺の宇宙を想像できるか。反対に、ダニの体、その中の脚、脚の中の血管、血管のうちの血液、血液の中のしずく、その中の蒸気……を思い描くことができるか。あまりに大きな音は聞こえないし、あまりにも多くの光はわれわれの目をくらませる。極度の熱さ・冷たさは知覚されない。
いかなる想念もそれに近づくことはない。(中略)人間にとっては、事物の窮極もまたその根源も、はかり知れぬ秘密のうちにどうしようもなく匿されているのである。(中略)されば我々は我々の限界を知ろう(断章七二)
「人間の不釣合」と呼ばれるこの一節からも、僕たちが、宇宙のような広大な無限も、極小の世界のことも、じつはまったくわかっていないということがわかります。
わかっていないのであれば、そもそもジャッジすることもありません。
無関心の智慧は「わかっていないということがわかる」ための智慧なのかもしれませんね。
参考文献 『損する生き方』のススメ(フォレスト出版) ひろさちや・石井裕之 著




















