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【vol.85】こころとからだの健幸タイム|ゲスト 帯津 良一さん 後編


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 ホリスティック医学の第一人者である帯津三敬病院名誉院長・帯津良一さんとエヌ・ピュア代表・鳴海周平との共著『1分間養生訓』(ワニ・プラス)からお二人の健幸対談を抜粋し、3回シリーズでご紹介します。
 
 

死後の世界はあるだろう

 
鳴海周平(以下、鳴海)
 ある程度の年齢を重ねていくなかで「仙人」のような雰囲気を醸し出している人がいるのは、内欲が年齢とともに自ずと少なくなっていったからなのかもしれませんね。

帯津良一さん(以下 帯津)
 そうやって、だんだんとあの世へ向かう準備をしているのでしょう。
「ほどよいタイミング」というのは「死にどき」についても、いえることだと思うんです。
 比叡山の大阿闍梨に伺ったことがあるのですが、知り合いのおばあさんは、ある春の日に畑仕事へ出かけて、休憩中にあまりにも暖かくて氣持ちがよかったらしく、こっくりこっくり居眠りをしながら息を引き取ったそうです。なんともうらやましい亡くなりかたですね。ほどよいタイミングであの世へ旅立つというのは、こういうことかと思いました。
 私だったらひとり下駄履きで居酒屋へ行けなくなったときが、そのタイミングかなぁ(笑)
 
鳴海 永井荷風さんの『日和下駄』のイメージですね。
 脚本家の倉本聰さんが、新聞のッセイで御父様が亡くなったときのことを書いていました。当時、倉本さんは高校生だったそうですが、御父様が狭心症の発作で危ない状態だったとき「みんなで賛美歌を歌おうよ」といって、歌い終わったとたんに天井の一点をみつめながら「きたきた!」と笑って亡くなったそうです。
「なにかが迎えにきた印象がして、なにかに立ち向かうような力強さも感じた」と倉本さんは述べていましたが、とても素敵な旅立ち方だなと思いました。

帯津 そのお話も素晴らしいですね。私も、あの世への旅立ち方には、ずっとイメージがありました。仕事中、病院の廊下を歩いていて、ふいに前方に倒れ込んだ私を一緒に歩いている看護師が抱きとめる。私は彼女の胸に顔を埋めてこと切れる。なんとも幸せな旅立ちではないですか(笑)。
 ただ、こうしたイメージにも、だんだんこだわりがなくなってきました。作家の五木寛之さんも「理想の死に方は野垂れ死に」とおっしゃっていましたが、死後の世界に希望を抱きながらいくのであれば、どこで、どんなふうに死んでもいいと思えてきたんです。

鳴海 五木さんは帯津先生との対談本『生死問答』(平凡社)のなかで、ブッダの旅立ちが典型的な野垂れ死にだったことをあげて「野垂れ死にの覚悟ができれば、からだの不調があっても検査せずにただただ不快な症状だけを取り除いて、貯金もせず、1日1日をたいせつに生きていけるような氣がする」と述べていましたね。たしかに、こうした覚悟があれば、生き方の可能性はもっと自由に広がっていくような氣がします。

帯津 もうひとつ、死に方を氣にしなくなったのは「死後の世界はあるだろう」ということが、実感としてわかるようになったからです。
 これまでたくさんの患者さんを看取ってきましたが、亡くなったあと、ある瞬間に表情がパッと変わるんです。皆さん、ものすごくいいお顔になる。その顔をみるたびに「ああ、この世でのお勤めを果たして魂の故郷へ帰っていく安堵の顔だなぁ」といつも思うのです。死の先に、なにか素晴らしいところがあるからこそ、こんなに満足と喜びに満ちた表情になるのだなぁと。
 落語家の立川談志さんと対談したときに「死後の世界はあると思いますか?」と質問したら「帰ってきた人がいねぇんだから、さぞかしいいところなんだろうな」という答えがかえってきましたが(笑)、私もまったく同感ですね。

鳴海 哲学者の池田明子さんが「池田は死ぬが私は死なない」と述べていることや、夏目漱石が門下生への手紙のなかで「死んでも自分はある。しかも本来の自分には、死んで始めて還れるのだと考えている」と書いていることなども「死後の世界」を感じさせてくれますね。

帯津 私は「死後の世界」を「虚空」とも呼んでいます。人は、肉体的な死を迎えても、本質である「いのち(魂)」は永遠に生き続ける。その「いのち」の源泉が、虚空であるという解釈です。「死ぬ」と「からだ」は大地へ還って「いのち」は故郷の虚空へ還る。
 私が長年探求しているホリスティック医学は、死後の世界までを視野に入れていますが、もし、この世にいる間に志が実現できなくても、続きはあちらでやればいいわけですから氣がラクです(笑)。そのためにも、こちらにいる間は内なるエネルギーを高めて、ほどよいタイミングがきたら勢いよくあちらへ旅立って行こうと思っています。

鳴海 この世で高めたエネルギーのままあの世へいけるのであれば「あす死ぬとわかっていてもするのが養生である」という五木さんの言葉のとおり、内なるエネルギーを高めるためにも楽しみながら養生を続けたいですね。

人生の幸福は後半にあり

 

帯津 内なるエネルギーと共に、歳を重ねるにつれて豊かになっていくのが感性です。
 鳴海さんが、篠田桃紅さんの「ひとつの花が咲いているのをみる目も、若いときと全然違ったものにみえる」という言葉を紹介していましたが、四季の移り変わりなどのなかに、若いときにはまったく氣づかなかった美しさや愛おしさを感じられるようになってきます。
 本居宣長が『源氏物語』の本質は「もののあわれ」にあって、それは美意識であると述べていますが、星空や月、道端に咲いている花などをみて「ああ、美しいなぁ」と深くこころに感じることが、以前にも増して多くなってきたように思います。
 益軒さんが「年齢を重ねることで得た豊かな感性があれば、楽しみを外に求めなくても、自らの心の中にあることがわかる。天地万物の光景の美しさに感動し、草木の成長を愛でることにも、楽しみや幸福を感じられる」と述べているとおりだなぁと日々実感しているところです。

鳴海 帯津先生の域にはまったく達していませんが、僕も「あれ?こんなところに、こんなかわいい花があったんだ」とか「空って、こんなにきれいだったかな」と氣づくことが多くなってきました。日常のなかで、こうした小さなことに感動できる機会が増えていくことも「人生は後半になるほど豊かになっていく」ということに、つながっているのかもしれませんね。

帯津 本書の冒頭で鳴海さんが紹介してくれたように、60代の頃はいまが人生の華だと思っていたのが、70代になってみるとこれがまたよくて、80代になったいまは、人生がますます楽しくなってきているんです。いろいろなことに「ときめき」を感じる機会が増えて、内なるエネルギーがその都度高まっている。そんな感じがするんです。

鳴海 五木さんが「一箇の人間の美しさや魅力は、若さを超える。挙止動作、服装、経験と包容力、スピルチュアルな深さ、知識、などなど、すべてのものが一体となって花開くのが黄金の※林住期」と述べているとおりですね。

 ※古代インドで人生を4つに分けたうちの「人生の後半」をあらわす言葉

帯津 そういったわけで 「人生は後半になればなるほど楽しい!」という益軒さんの言葉には、まったく同感なのです。
 感性が豊かになって、内なるエネルギーが高まる幸福感。そして、それが死後も続いていく楽しみ。あの世では、先に行っている先輩や友人と一献傾けられる楽しみもあります。
「千金にも値するような人生の後半を楽しまないのはもったいない!」という益軒さんの言葉にしたがって、これからも美味しくお酒をいただきながら内なるエネルギーを高めていきたいと思います(笑)。

 

プロフィール

帯津 良一さん

1936年埼玉県生まれ。日本ホリスティック医学協会名誉会長。
日本ホメオパシー医学会理事長。
1961年東京大学医学部卒。現在、帯津三敬病院名誉院長。
西洋医学に中医学やホメオパシーなどの代替医療を取り入れ、
ホリスティック医学の確立を目指している。
『健康問答』(五木寛之氏との共著/平凡社)ほか著書多数。

 

 

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