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【vol.25】こころとからだの健康タイム|ゲスト 木原 くみこ さん


 札幌市西区に本拠地を構えるコミュニティFM三角山放送局は、今年の4月で開局10年目に入ります。地域に密着した番組作りをモットーとしながらも、インターネット放送を通じて、海外のリスナーからリアルにメッセージが届くという国際的な放送局でもあります。北海道地域づくりアドバイザーなど、多数の公職も兼務している代表の木原くみこさんに、お話を伺いました。

鳴海周平(以下 鳴海) 赤レンガの素敵な建物の中に放送局があるんですね。歴史的な建造物のように見受けられますが、いつ頃建てられたのでしょうか。

木原くみこ代表(以下 木原) この建物は、昭和4年に缶詰工場として建てられたものです。その後倉庫や喫茶店となって、長い間この地域のシンボルとして愛されてきた建物なんですが、今回この地域の再開発計画で40階建ての高層マンションが建設されるにあたり、集会所として保存されることになりました。私たちの放送局で管理運営を行っていて、ここから放送もしています。

鳴海 地域のシンボル的な建物が情報発信の拠点というのは、素敵なことですね。木原さんは、ラジオのお仕事にずっと携わってこられて、たくさんの人気番組、ドキュメンタリー番組などを制作してきた、とお伺いしました。民間放送連盟賞やギャラクシー賞など、本当に輝かしい受賞歴を多数お持ちですね。

木原 ありがとうございます。私はラジオが大好きなんです。特に番組を制作するのが、本当に好きなんですね。ですから、短大を出て札幌テレビ放送株式会社(STV)に入社した時に、秘書課に配属になった時は、とってもショックでした(笑)。実際に秘書の仕事をやってみて、私にはやっぱり合ってない、と再びショックを受けました(笑)。それで、人事課に毎日通って、ラジオの仕事をさせて欲しい、ってお願いし続けたんです。手紙も山ほど書きました。そんな努力が実ってか、1年半後にラジオのレコード室へ配属が決まりました。

鳴海 1年半あきらめずに粘り続けた、というのは凄いですね。それだけ、ラジオに対しての熱い想いがあったということなのでしょう。制作の仕事にはすぐに携わることが出来たのですか?

木原 当時はまだ、企画は男性がやるもの、という業界の常識のようなものがありましたから、なかなか制作には携わらせて貰えなかったんです。ですから、勝手に番組を作っていました(笑)。そうしたら、その番組が賞をとってしまったんです(笑)。この受賞がきっかけで「もしかしたら、この子才能があるのかも。」と、会社も認めてくれるようになりました。自分がやりたかった、企画・制作の仕事にようやく就くことが出来たんです。そして約20年間、ラジオ制作という1つの仕事に、じっくりと取り組むことが出来ました。

鳴海 よく「一芸に秀でる」と言いますが、1つのことに20年間携わると、いろいろなことが見えてくるのではないですか?
木原 1つのことにある程度の期間携わっていると、随分と詳しくなるものです。社内でも「この事は木原に聞け」という雰囲気になってくるんですね。そうするとその事が励みになって、益々張り切って勉強をしてしまうわけですよ。ですから、今でもラジオの事は何を訊かれてもわかります。
たくさんの賞をいただく事が出来たのも「ひとつの事をやり続ける」という環境を与えて貰ったお陰だと思います。

鳴海 その経験と知識は、FM局の開局にも大いに役立ったというわけですね。
 武道でも芸術でも、一芸に秀でている人というのは、とても魅力的ですし、異なった分野にも精通している方が多いように思います。何でも器用にこなさなくてはいけない、と教育されてきた私たちにとって「一芸に秀でる」ことは、これからの時代に必要な、とても大切な要素かもしれません。
 ところで、木原さんのラジオ好きは、子供の頃からだったのですか。

木原 私の記憶では、3歳頃からラジオと一緒だったと思います。両親も「この子にはラジオを与えておけばいい」みたいに思っていたようですよ(笑)。今でもはっきり覚えているのは、毎日午後3時から放送されていた「おやつの時間」という童話の朗読番組です。この番組が毎日楽しみで、欠かさず聴いていました。音だけの世界ですから、画を想像しながら聴くわけです。自分の中で描いた画なので、とってもリアルで、今でも思い出すことが出来ます。その点今はテレビが中心の時代ですから、最初から画がついているわけです。そうするとイメージする前に、画が出てしまう。子供たちの想像力が欠如していると言われる背景には、こうした一因もあるのかなと思います。
鳴海 次から次へと湧き出る企画アイディアの基は、木原さんのそういった幼少時代にあったのかもしれませんね。ラジオは音だけですから、木原さんの子供時代の想像力を駆り立て、育んでくれたということなのでしょう。
 人間は新しいことにチャレンジする時に、心身を活性化するホルモンが分泌されると言われていますが、木原さんの元気の秘密は「豊かな想像力を活かして、新しい企画を練る」ことにあるのではないでしょうか。

木原 私のストレス解消法は2つあるんです。1つめは、いま鳴海さんが仰ったように「新しい企画を練ること」。新しいことを考えると、ワクワクして元気が湧いてきます。きっと、良いホルモンが分泌されているのでしょうね。
 そしてもう1つは「人と会うこと」です。気分が落ち込んだ時は、あまり外にも出たくないし、1人で塞ぎ込んでしまいたくなります。でも、そこを無理やり、取材やインタビューなどの約束を入れてしまうんです。すると、ふだんはあまり気に留めないようなことにも大きな気付きが得られるんです。きっと心が繊細になっている分、感性も高まっているのでしょうね。だから、元気のない友達には「気分が落ち込んでいる時こそ、新しい発見が出来るチャンスだよ。」って教えてあげています。

鳴海 木原さんのストレス解消法は、2つとも前向きな方法ですね。心身共に元気になって、仕事もはかどる(笑)。まさに一石二鳥ですね。

木原 私の仕事は、取材という大義名分で「誰とでも会える」という大きなメリットがあります。そして「会いたいな。」と強く想っていると、本当に誰とでも会えるんですね。
 私が尊敬している方で、ジャズ・ピアニストで作曲家の秋吉敏子さんがいます。「いつかこの方のコンサートを、このレンガ館で実現出来たら。」と想っていたら、今年の2月に実現してしまいました。もう、感動で鳥肌が立ちました。
 秋吉さんは、今年の1月に日本人としては初めて、ジャズの頂点である「ジャズマスター賞」を受賞された方です。昭和4年生まれですから、今年で78歳になりますが、今でも新しいことにどんどん挑戦して、レパートリーを広げています。秋吉さんが「自分は、有名になろうとか、お金持ちになろうとかは思わない。ただ、もっともっといいピアノ弾きになりたい。そのことだけに懸けています。」と仰いました。「一芸に秀でること」と「常にチャレンジし続けること」の大切さを、改めて教えてもらいました。

鳴海 「石の上にも3年」や「継続は力なり」など、昔から「続けること」の大切さを説いている言葉は多いですね。ひとつのことに腰を据えて、じっくりと取り組むことの大切さを改めて感じさせられるお話です。
 木原さんも、ラジオという分野を中心にして、ずっと活躍していらっしゃるわけですが、今後はどういった展開をイメージしていらっしゃるのでしょうか。
木原 FM三角山放送局のコンセプトは「いっしょに、ねっ。」です。ここでは、120人以上のボランティア・パーソナリティが、毎日自分の想いを伝えています。「話す人」と「聞く人」が、別々ではなく一緒なんですね。大きな放送局は、「話す人」と「聞く人」が、別々です。そして数字を取るためにも、多数決の原理で動いていますから、かける音楽もヒット曲ばかりになってしまう。でも私たちのようなコミュニティ放送局は、少数派ひとりひとりの声を発信していけるメリットがあります。少数派の集合体が、ひとつの地域を作り上げているわけですから、声の大きい人(権力や地位のある人)の意見ばかりが尊重されるようなことは、ここではありません。年齢の壁、性別の壁、障害の壁、外国人の壁などが取り払われて、ひとりひとりの声が発信出来る、本当の意味でのバリアフリーの実現が「いっしょに、ねっ。」です。
「いっしょに、ねっ。」って笑いながら、ひとりひとりの声が尊重される地域づくりのために、この放送局が少しでもお役に立てたら、と思います。
鳴海 こうして建物の中を拝見していると、バリアフリーの造りなど「いっしょに、ねっ。」というコンセプトが、あちらこちらに見られますね。120人以上もいる三角山放送局のパーソナリティさんは、地元の方が多いのですか?

木原 はい。特に想いを伝えていただきたい地元の皆さんには、積極的にご出演いただいています。
 「耳を澄ませば」という番組を担当している福田さんは、網膜色素変性症で視力を失ってしまいました。詩吟がお得意で、辛口の時事ネタも評判です。目の不自由な方に対する放送に必要な様々な合図は、振動によって合図を送る装置を北海道工業試験場さんと共同研究で作りました。
 「飛び出せ車イス」という番組を担当している山本さんは、交通事故で首から下の自由が利きません。車椅子生活者の立場から、日々感じたことを語ってくれています。マイクのスイッチは、息をストローから吹き込むことで調整出来る装置を作りました。
こうしたひとつひとつの装置は、皆がアイディアを出し合って生まれたものです。ですからここは「いっしょに、ねっ。」というコンセプトが次々と実現されていく「夢のスタジオ」でもあるんですね。
 私は、障害をお持ちでも、こうして前向きに人生を送っていらっしゃる皆さんとお会いしていると、いつも父のことを思い出します。父は毎日欠かさず手帳をつけていたのですが、入院中のある日手帳に大きく「完」という字を書いたんです。そして、それから数日後に亡くなりました。いつも前向きに生きていた父でしたから、思い残すことなく「人生を全うしたぞ。」という晴れ晴れとした気持ちで旅立っていったのだと思います。私が常に前向きでいられるのも、きっと父の後ろ姿を見て育ったおかげでしょうね。私も、父のように「完」と書いて、人生のゴールに辿り着けたらいいな、って思います。

鳴海 「完」と書いて人生を締めくくることが出来るというのは、本当に理想的な旅立ちですね。何事にも前向きだったという御父様は、きっと「今生をやり遂げた。」という満足感があったのでしょう。
 こうした素敵な旅立ちをするためにも「ひとつのことをやり続けること」から得られる経験と、ご縁を大切にして、悔いのない今生としたいものですね。
 今日は貴重なお話をどうもありがとうございました。

木原 くみこ・プロフィール

(株)らむれす・三角山放送局 代表取締役社長
札幌西高を経て、藤女子短期大学国文科卒。
昭和46年札幌テレビ放送(STV)株式会社へ入社。以後、ラジオ制作ディレクターとして、「喜瀬ひろしのおくさまジャーナル」、「河村道夫の桃栗三年」「中西章一の二人三脚」「日曜8時はおんな時刻」など人気番組を数多く手がける。
ラジオドキュメンタリーの分野でもその手腕を発揮し、民間放送連盟賞、放送文化基金賞、ギャラクシー賞、文化庁芸術作品賞など受賞歴も数多い。平成3年、STVを退社。ラジオ番組制作・イベントコンサート制作の会社『らむれす』を設立。ラジオ番組の制作や「廃校コンサート」など地域のイベント制作に活躍。
また北海道の高校放送作品コンクールラジオ部門の審査員を毎年努め、若者の指導にあたっている。平成10年、コミュニティFM『三角山放送局』開局。“超”地域密着ラジオとして信頼を集めている。

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