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【vol.40】こころとからだの健康タイム|ゲスト 柿木 道子 さん・くいだおれ太郎 さん


 道頓堀の顔として絶大な人気を誇るくいだおれ人形の太郎さん。昭和58年から、くいだおれの顔として太郎さんと共に歩み続けてきた女将の柿木道子さんに「大阪名物くいだおれ」の歴史などを伺いました。

鳴海 周平(以下 鳴海) 女将さんとは2008年に本誌「ぶらり旅」の取材で御目にかかって以来のお付き合いです。

柿木 道子さん(以下 柿木) もう3年前になるんですね。その年はちょうど「くいだおれ」が60年の営業に幕を下ろした年でもありました。閉店の発表を3ヶ月前におこなったのですが、それから閉店までの間はもうたいへんな賑わいでした。店の前には太郎と記念写真を撮る人たちで長蛇の列ができ、お座敷は連日予約でいっぱい、それでも入りきれないお客様が「どこでもいいから入れてくれ」(笑)と、電話が鳴りっぱなし。
あと3ヶ月後に閉店だというのに、臨時職員を雇ったり、食器を注文したりと、本当に笑い話のような状態でしたが、お陰さまで閉店の感傷に浸る間もなく最後まで賑やかな店で閉めることができました。地元大阪の皆様や全国のお客様に愛されながら最終日を迎えることができて、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 ほら、太郎も御礼言うて。

太郎さん(以下 太郎) おおきに。
 
鳴海 (笑)太郎さんともお話ができて光栄です。
 道頓堀近郊まで含めると、閉店発表から3ヶ月間の経済の波及効果は17億円という試算があるそうですね。「くいだおれ」さんが、いかにたくさんのファンをお持ちだったのかがよくわかります。

柿木 「明るい食の発信地にしたい」「親も子も、孫も交え、家族が3世代にわたってほんまもんの食事が楽しめる庶民的な店を目指そう」という想いから、昭和24年に父・山田六郎が創業しました。当時はまだまだ酒が不足していて、合成酒や水増しの酒も横行していましたが、父は「何事もほんまもんやないといかん」と言って自ら蔵元を歩いて本物の酒を樽で揃えていました。そんな父の姿勢も評判となって、店は連日大賑わいだったそうです。戦後間もない当時の人々の楽しみは「映画」と「外食」でしたから、ちょうど時代の流れにものったのでしょうね。

創業者・山田六郎は
      アイディアマン

柿木 「くいだおれ」という店名については「食って倒れるなんて縁起が悪い。そんな屋号はやめたほうがいい」と周囲の大反対があったそうですが、父はそんなことは意に介さず「大阪を代表する食堂になるのやから、これでええのや」。店名を心配していた隣のおこし屋さんにも「あんさんとこはおこし屋さんや。うちが倒れたらおこしてんか」(笑)と「くいだおれ」に決めてしまいました。母は母で「何百年も、くいだおれという名前は使われていません。ということは、まるで私たちのためにあるようなものやおまへんか」と言って迷わずこの屋号に決めたようです。夫が夫なら、妻も妻でしょう?(笑)

鳴海 道頓堀には御父様に関するいくつもの伝説がありますね。特にお店の宣伝手法に関しては、今でも語り草になっているとか。

柿木 例えば、店の看板メニューとして「すき焼き」を宣伝しようと思い立った時の話でしょうか。
 どこからか1頭の牛を連れてきて、大きな鉄鍋と大量のねぎをその牛に背負わせた父は、ちんどん屋の格好をさせた店員たちと行列を作って道頓堀をねり歩いていました。ところが道頓堀は「車馬通行止め」。巡査がとんでやってきました。「こんなところで牛を牽いてはいかん!車馬通行止めと書いてあるのが見えんのか!」父は「車と馬はダメでも、牛までダメとはかいておらん」と言ってスタスタと歩き続けたそうです。(笑)納得しない巡査と激しい押し問答をしているうちに、周囲には黒山の人だかり。この騒動が噂を呼び、すき焼きは大繁盛。抜群の宣伝効果になったそうです。
 また昭和25年には、アメリカ旅行のお土産に、当時日本では珍しかった自動販売機を2台買ってきたこともありました。大阪駅に設置したまではよかったのですが、いよいよ試運転という時「あ、日本の金では動かへん」(笑)。父は確かにアイディアマンなのですが、こんなふうにどこか抜けているんですね。結局、自動販売機の横に人を立たせて両替をさせたそうですから「自動販売機」と言ってよいのかどうか・・・(笑)。それでも今のお金に換算して1杯千円のコーヒーが飛ぶように売れ、山田六郎の名も巷に知れ渡ることになりました。
 新しいもの好きの父はテレビもいち早く導入しました。据え付けたテレビをひと目見ようと店頭は黒山の人だかりです。ところがいつまで待っても、何も映らない。父が電気屋さんに「なんで映らへんのや」と聞くと「だってテレビの放送、まだしとりませんもの」(笑)。それでもこの時の様子は新聞に大きく掲載され「くいだおれ」の宣伝になりました。
鳴海 (笑)時代が追いつかないほど、先見の明があったんですね。
 究極の宣伝効果と言ってもよい「太郎さん」も、御父様のアイディアですか?

柿木 はい。当時としては前代未聞の「電気仕掛けの動く人形」も父が考案したものです。等身大の動く人形を置けば、子供たちにも受けて道頓堀全体が賑やかになる、と思ったようです。当時人気のエノケンの顔をモデルに、紺の半纏(はんてん)、豆絞りの鉢巻き、右手にはビールジョッキを乗せたお盆を持って台座と一緒にクルクル回る仕掛けです。ところが、人形が回転するたびにジョッキのビールが通行人にかかってしまうというアクシデントがしばしば発生しました(笑)。「回転させることが無理なら・・・」と、姿恰好を道化のように面白くして、まゆ毛や目玉、口を動かしながら首を振って鉦(かね)と太鼓を叩く、という現在の人形の元祖を制作したのです。人形の顔についてもずいぶんと細かく注文を出したようで「あまり男前ではいかん。耳は福耳、笑顔がよくて、いつまでも飽きん顔で・・・」
困った人形師さんは、ある人物をモデルにして顔を作り上げました。父は「おお、これでいいがな!!」と、即オーケー。モデルは父だったそうです(笑)。

太郎 わて、よう似てまんねん。

専業主婦歴18年から女将業へ

柿木 創業した当時、私は9歳でした。3歳から18歳まで、父の故郷である兵庫県の香住町(現・香美町)に疎開していたので創業当初の店の様子はわかりませんが、冬休みや夏休みにはよく店に遊びに来ていました。ふだんなかなか食べることができない「アイスクリーム」が最大の目当てでしたが、道頓堀の雑多な雰囲気も大好きでした。

鳴海 香住町は日本海側の漁場ですよね。美味しい魚もたくさん食べることができたのではないですか?

柿木 港まで歩いて5分でしたから、私の部屋にも潮の香りが届いていました。
 両親と離れて暮らしている私には、冬の日本海がとても寂しいものに映っていましたが、おやつもおかずも、カニ、カニ、カニ・・・という食生活は、今思えばずいぶん贅沢でしたね。おっしゃるようにイカでもワカメでも新鮮で美味しいものがたくさんありました。

鳴海 疎開先から戻られた後は、1年間「くいだおれ」さんでお勤めになり、その後18年間は専業主婦として家庭を支えてこられたわけですが、御父様からの強い要望でまた復職することになったんですね。

柿木 父は亡くなる1ヶ月前、私に「願い状」を渡してきました。
 それは「わしの代わりに店に出てくれんか。指示はわしが出すから、言ったとおりに動いてくれんか」といった内容でした。子育てもひと段落して、さあこれからゆっくり習い事でもしようか、と思っていた矢先だったので正直迷いました。「ずっと専業主婦だった私に何ができるんだろう?」という不安もありました。でも「考えるのはわし。お前は動くだけでええ」という父の言葉と「親が困ってるんや。行ったげ」という夫の言葉に押されるように、私は「くいだおれ」に入社することになったんです。
 ところが頼りにしていた父はそれからすぐに亡くなってしまいました。
途方に暮れる私の頭の中に父の遺言が浮かんできました。
「支店は出すな」「家族で経営せよ」そして「人形を大事にせい」という言葉です。

鳴海 太郎さんのことについても語られていたんですね。

柿木 まだ「太郎」という名前もつけていない時でしたが「人形のおかげでわしらは食うて来られたのや。何があっても人形を大事にせいよ」と強く念を押されました。ここにも父の先見の明があったのだと思います。
 こうした経緯から一大決心をして「くいだおれ」に入社したのはよいのですが、2〜3年は何をしたらよいのかわからずにいました。でも、厨房に座って編み物しているわけにもいきませんしね(笑)。そのうち洗い場さんが一人お休みをとったことがきっかけで、洗い場を手伝うようになりました。それがいつの間にか私の日課のようになっていたのですが、ある日洗い場に立っていると1階ホールの店長から「それは、こっちでやる仕事です!もっと他にやることがあるんじゃないですか?」と厳しい声がとんできました。ずっと父を見てきたはずなのに「経営者業」というのがわかっていなかったんですね。それで「私に何かできることはないか」と知恵を絞ってメニューを提案したこともありましたが「家で3人や4人のメシ作るのと、わけが違うで!」とケンもホロロに突き返されてしまいました。私の居場所を見つけるだけでも、ずいぶんと時間がかかりましたね。

鳴海 立場的にもお辛い状況が続いたんですね。

柿木 でも、そんなある日「道子、基本や。原点に戻って考えてみい」という父の声が聞こえてきたんです。
 ちょうどその頃、周囲にはいくつもの専門店チェーンができていて、その勢いに押されたのか、ベテランの従業員が「今は専門店の時代。うちのような総合食堂は時代遅れでっせ」と言ったことに私は首を傾げていました。
「それぞれの分野の職人さんが集まって、ほんまもんを提供できていることが、今まで培ってきたウチの強み、原点や」と思っていましたからね。それで、ハッと気付いたんです。
「ウチにしかできない料理、総合料理になるようなものを作ったらどうなんやろ?」って。いろいろな種類の職人さんの料理をひとつにした「くいだおれ流ドッキングメニュー」ですね。そのアイディアが形になった記念すべき最初の商品が「大阪ロマン」。寿司職人さんが作る盛り合わせ寿司とうどん職人さんが作る天ぷらうどんの組み合わせです。そのメニューは予想どおり大ヒットして、厨房が久々に活気づきました。
 その後もオムレツとドリアをドッキングさせた「オムドリア」も大ヒット。ウチの強みを活かした商品開発の面白さに目覚め始めた時期でしたね。

くいだおれ人形
     「太郎さん」の活躍

柿木 商品開発をしたら、今度はそれをいかに美味しく見せるかというところで、ショーウィンドウの飾り付けや、料理を盛り付ける器組みも私の担当になりました。またその後10年かけておこなった店舗のリニューアルも、メジャーを持って設計から携わらせてもらうことができました。

鳴海 「今できる仕事」に集中して取り組むことで、社内での立場を徐々に確立していったのですね。
 太郎さんも、現在の人気を確立するまでにいろいろなご苦労があったのではないですか?

太郎 ほんまにいろいろおましてん。

柿木 もう30年も前になりますが、某テレビ番組で「日本で一番流行遅れのダサいものナンバーワン」に選ばれた時は本当に可哀そうでしたね。
 コンサルタントの先生からも「古い人形を撤去されるとイメージが変わりますよ」と、むかし父が銀行から言われたのと同じことを言われたりもしましたが、私は父の遺言から「太郎を大阪一の有名人にしたる!!」と思っていましたから、衣装替えをしたり、イベントに合わせて別のバージョンを用意したり、と考えられる限りのいろいろな仕掛けをしていきました。そうしているうちに、いつの間にかコマーシャル出演やイベントなどへの参加依頼が増え、気がつけば太郎はすっかり道頓堀の人気者になっていました。
 兄は「トラック競技で2周目のビリが、いつの間にか3周目のトップになっていたようなもんや」と言っていました(笑)。

鳴海 信念がぶれなければ、きっと時代の方が追いかけてきてくれるのでしょうね。
 息の長い「太郎さん人気」は、ひっきりなしの依頼に対して「出演は大阪や道頓堀のPRになるものに限る」「公序良俗に反するもの、下品なものには出演させない」という基準を設けて徹底した女将さんの信念の賜だと思います。
「ほんまもん」にこだわった御父様の想いが、そのまま女将さんに受け継がれているように感じますね。
 平成4年に阪神タイガースが優勝した際、道頓堀川に投げ込まれないようにと「わて、泳げまへんねん」という吹き出しをつけていたことが話題になったり、関西国際空港オープン記念で「旅行に行くねん」と言って本当にオーストラリアまで1週間の旅行をしてしまったりというニュースは、私もとても楽しく拝見していました。

柿木 太郎が忙しくなって出張で留守にすることも増えたので、せっかく来てくれたお客さんががっかりしないようにと、弟の次郎にも協力してもらうようになりました。(笑)今日も次郎が代わりに立ってくれていますよ。

「美味しく楽しく食べること」と
「笑顔」が健康の基本

柿木 閉店後、太郎はしばらく自分探しの旅に出ました。それで「やっぱり道頓堀におる」って決めたようです。
今もこうして道頓堀の地で皆さんに愛されている姿を見ると「人形を大事にせいよ」という父の遺言をようやく果たすことができたなぁ、と思います。
「わしは、お前にお金を残してやらへん代わりに、仕事を残してやる」と言っていた父でしたが、本当に私はお金に変えられないたくさんの体験をさせてもらうことができました。
 全国にいらっしゃる大切なお客様とのご縁は、何よりの宝物です。

鳴海 大阪はもともと「天下の台所」と呼ばれていたほど食文化の豊かな街です。「くいだおれ」さんが、全国のファンから「ほんまもんの料理を食べさせてくれる店」として愛されてきたことも、とても深い縁があるように思いますね。

柿木 おっしゃるとおり、大阪は「天下の台所」です。
 私どもも、全国からご来店いただいたお客様から特産物や旬の食材に関することをずいぶんと勉強させていただきました。食材に合わせて旬の仕入れ先を検討し、いつも「ほんまもん」だけを提供してきたことは私どもにとって大きな誇りです。
「くいだおれ」は閉店してしまいましたが、世界中から「健康食」として注目されている日本の伝統料理の素晴らしさを後世に伝えていくことは、料理屋さんの大きな役割だと思っています。そのためにも職人さんが気持ちよく働ける環境を作ってあげることはとても大切ですね。職人さんの腕が引き継がれていかないと伝統の味は守れないですから。

鳴海 日本の伝統料理が長寿食・健康食として世界的な人気を集めていることは、本当に誇らしいことですね。
心身の健康は「食」が大きなウェイトを占めているように思います。

柿木 どんなものを食べるか、そしてどんな気持ちで食べるかということは、健康にも大きな影響を与えているでしょうね。
 旬の食材をいかに美味しく召し上がっていただくか、ということと共に、気の合う人と一緒に食事をする楽しさを知ってもらうことも料理屋さんの大切な役割だと思います。
「個食」とか「孤食」が増えている昨今だからこそ、人と人とのコミュニケーションのきっかけとなるような場を提供し、食事の楽しさをお伝えするのが料理屋さんの大切なお役目である、ということを伝えていくのも「くいだおれ学校」を卒業した私の仕事ではないかと思っています。
 美味しいものを食べている時、気の合う人と楽しく会話をしている時、人は必ず笑顔になります。「笑顔」は最高の調味料であり、健康の秘訣ですからね。

鳴海 「旬の食材を美味しく調理して楽しく食べる」ということが健康の秘訣ですね。
 今日は太郎さんにもご同席いただき、とても楽しいひと時でした。
 どうもありがとうございました。

太郎 おおきに。またおこし。

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