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【vol.43】こころとからだの健康タイム|ゲスト 中島岳志さん~前編~


2005年に「中村屋のボース」(白水社)で大佛次郎論壇賞を受賞以来、「ヒンドゥー・ナショナリズム」「保守問答」「インドの時代」など多数の作品を著している政治学者・歴史学者の中島岳志先生。
深い歴史洞察に基づいた中島先生の「人間観」から、心と身体の健康につながるヒントを伺いました。

今回は前編として、中島先生のこれまでの歩みや、研究者としての道を選んだきっかけなどを紹介します。

鳴海 周平(以下 鳴海)
 中島先生とは、同じラジオ局でレギュラー番組を持たせていただいていますが、政治から歴史、経済、国際情勢など、本当に幅広い情報に精通していらっしゃるので、いつも驚きながら楽しませてもらっています。
 今日もお伺いしたいテーマはいろいろとあるのですが、先ずは、おそらく神童と呼ばれていたであろう幼少期の頃から教えていただけますか?

中島 岳志 先生(以下 中島)
 (笑)落ち着きがなくて、しょうもない子供だったかもしれません。勉強が嫌いで、小学校の成績はビリから数えた方が早いくらいでした。まさか学者になるなんて、誰も思っていなかったんじゃないでしょうか(笑)。

鳴海 それは意外でしたが、急に親近感が湧いてきました(笑)。

中島 ただ、偏った子で歴史だけは大好きでした。これはたぶん、僕が小学校2年生の時に両親が連れて行ってくれた静岡県の登呂遺跡の影響ではないかと思います。
 弥生時代の農耕集落が遺されている登呂遺跡には、当時の人々の住居や高床倉庫などが再現されていて、どれも面白いものばかりでした。中でも「火起こし機」の模擬体験は強烈なインパクトでしたね。それで、親に泣いてお願いしたんです。「火起こし機買って!!」って。きっと自分の心にも着火してしまったんだと思います(笑)。

鳴海 「火起こし機」で駄々をこねる子供は、なかなかいませんね(笑)。でも、さすがに売っていないでしょう。

中島 レプリカを買ってくれました(笑)。それで何年も飽きずに遊んでいましたね。今にして思えば、古来の人間の精神みたいなものに関心があったんだと思うんです。何千年も昔に原始的な生活をしていた人たちは、火が起きる瞬間いったいどんな感覚だったんだろう?そういった古代の人たちの精神と通い合ってみたかったんですね。きっとこの時の体験が、歴史を好きになったきっかけだと思います。

歴史少年、大阪中の史跡を自転車で探索

中島 僕が小学校4年生の時に、お札がそれまでの聖徳太子から福沢諭吉に変わりました。それで「1万円になった福沢諭吉ってどんな人なんだろう?」と思って図書館で調べてみたら「中津藩の蔵屋敷で生まれた」と書いてある。大阪梅田近辺にある我が家からそんなに遠くない場所だったので、さっそく自転車で行ってみました。
 そうしたら、当たり前のことですが「福沢諭吉生誕の地」と書いてあるわけです。「自分で調べて、そこに行ったら、そのものがちゃんとある」っていうことが面白くて、それから歴史を調べては大阪中の史跡を自転車で訪ね歩きました。先ほどの火起こし機のように、もうこの世にはいない人たちの観念に想いを巡らせることが楽しかったんです。

鳴海 先生の歴史学者としての幅広い視点は、そうした体験が原点だったんですね。
 ラジオ番組でお話を伺う度に感じていたリアルな歴史観と、奥行きの深さの理由がよくわかりました。
 それにしても、3時間番組という長い放送時間を感じさせない先生の話題の豊富さには、いつも感心させられています。

中島 いろいろなことが複雑に関係し合っている時代だから、話題も多方面に及んでしまうのかもしれません。関心を持って研究している対象そのものは、20歳の頃からずっと変わっていないんですけどね。と、言うのも、僕が20歳になった1995年は、社会的にもとても大きな出来事が2つあった年なんです。 
 1つは「阪神大震災」、もう1つは「オウム真理教事件」。この2つは僕にとって大きな転機になりました。

鳴海 先生は当時まだ大阪にお住まいでしたよね。ということは、震災を直に体験されたのですか?

中島 はい、実家が古いマンションだったので、ジョイント部分が外れたり、屋上の給水タンクが破裂して水が滝のように降ってきたり・・・。部屋の中もメチャクチャで、靴を履かないと生活出来ない状態が何日も続きました。そのことだけでも、価値観がひっくり返ってしまうような体験なのですが、僕が決定的な衝撃を受けたのは、数日後のテレビ中継を見ていた時だったんです。
 ようやく規制が解除されはしたものの、焼け野原のようになってしまった震災現場で必死に探し物をしている人たちに、リポーターがインタビューをしていました。「何をお探しですか?」という問いかけに、ほとんどの人が「家族のアルバムです」とか「想い出の品を探してます」と答えている中で、一人のお婆さんの反応だけが違っていたんです。「何をお探しなんですか?」という同じ質問に対して、ひと言「位牌だ」と答えたんですね。それも「何でそんな当たり前のことを訊いてくるんだ?」という表情で。
 この時、僕は地震で体験した「物理的な揺れ」以上の「精神的な揺れ」を感じたんです。
 両親とも戦後生まれで団塊の世代、ずっと核家族の我が家には仏壇がありませんでしたから、よけいにこのお婆さんの言動がショッキングだったのかもしれません。
 まるで僕の中の空洞部分と出会ってしまったような感覚でした。

「信仰」と「愛国」という2つの原点

中島 その1ヶ月くらい後、僕は神戸に行ってみました。震災前は公園だったと思われるような場所で座っていたら、隅の方で凧揚げをしている一人のお爺さんがいるんです。上手に揚げようとしているわけでもなく、ただ空をじっと見つめて凧を揚げているんですが、かなりの時間が経ってもずっとそのままの姿勢で揚げ続けていたので気になって話しかけてみました。
「ここでずっと凧を揚げてはるんですか?」
「いやぁ、最近やなぁ。ここ何日かや。家内が震災で亡くなってな。難しいことはよくわからんのやけれども、こうしていると何だか家内と手を繋いでいるような気がするんよ。」
 凧の先に亡くなった奥さんがいる・・・。この時も、僕は大きな衝撃を受けました。
 位牌を一生懸命探していたお婆さん、そして神戸で凧を揚げていたお爺さん・・・。
 荒野のようになってしまった所に立たされた時に、僕はただボーッとしてしまって、自分の拠って立つものがわからなかった。でもこの人たちには拠り所があるように思えたんです。それは、「信仰」とか「目に見えない存在」という、それまでの僕の世界観にはまったくなかったものだったわけです。

鳴海 私は曾祖父母も一緒に暮らしていましたから、仏壇に手を合わせるという習慣はずっとありましたし、「位牌」をとても大切に扱っていたこともよく覚えています。でもそのことの理由は、理屈では説明できないんですよね。
ただ、仰るように「拠り所」としても大きな存在であったことは間違いがないと思います。

中島 ところがこの年、昔から人々の拠り所となってきた「信仰」というもののイメージを大きく揺るがす「オウム真理教事件」が起きました。この事件で「宗教は危ない!!」というイメージになってしまったわけですが、幹部は皆、僕より少し上くらいの年齢で当時まだ20代、30代の若者ばかりでした。それで、「確かに出口としては大きく間違った方向に行ってしまったけれど、入り口は何だったんだろう?」という疑問が湧いてきたんです。
 おそらく彼らは、どこか「満たされなさ」というか「空虚感」を感じる現代社会の中で、物質文明みたいなものに塗れて生きていることに疑念を持っていたのではないでしょうか。そして、そういった時代にあって、自己を見つめ直したい、違う角度からも見つめてみたい、
そういう気持ちが入信時にはあったんじゃないかと思うんですね。
 メディアは「出口」だけを見て、盛んに「危ない!危ない!」と言い続けていましたが、「入り口」を見ようとせずに危険性だけを煽る風潮にもどこか不自然さを感じました。
 一緒にはできませんが、がれきの中で一生懸命位牌を探していたお婆さんや、凧を揚げていたお爺さんの「信仰心」というものと、「目に見えない存在を拠り所にしている」というあたりで、どこか繋がっているような気がしたんですね。
 「信仰って本当に危ないものなんだろうか?」
 20歳の時に出会ったこの課題を自分なりに勉強してみよう、と思ったのが、僕の研究者人生のきっかけとなったように思います。

鳴海 最初に中島先生が仰った「関心を持って研究している対象そのものは、20歳の頃からずっと変わっていない」という原点は、そうした体験にあるんですね。

中島 じつはもう1つ原点があって、1995年は「戦後50年」という年でもありました。この節目にあたって当時の「村山内閣」が発表した「日本は侵略戦争をした。過去のいろいろな過ちについて謝罪する。」という村山談話は、「ナショナリズム(愛国)」という大きな問題を世間に投げかけました。
 20年間、ただボヤーっと生きてきた僕にとって「愛国」とか「信仰」というのは、自分の精神の中からもっとも欠落していた、というか、まったく訳のわからないものだったんです。でも、どうやらこの2つに日本が飲み込まれてしまって、皆が訳のわからない状態になっているんじゃないか、と強く感じました。

鳴海 当時は私も20代でしたが、確かに「解決の糸口が見つからない空虚感」のようなものが流れていたように思います。しかし決定的な解決方法が見つからないまま、1つの大きな岐路に立たされた状態が続いているのかもしれませんね。

中島 「宗教・信仰」と「ナショナリズム・愛国」という2つのワカラナイものに、僕たちはいったいこの先どうやって向き合っていけばいいんだろう?
 そんな疑問を持ちながら、いろいろな本を読んでいる時に出会ったのがボースという人物でした。

中村屋のボースとの出会い

中島 ボースは20世紀前半に日本にやってきたインド人で、1910年代のインドを代表する独立運動の指導者でもあった人です。

鳴海 先生の最初の著作「中村屋のボース」の主人公ですね。

中島 はい、新宿中村屋に婿養子として入り、日本にインドカリーを伝えたインド人です。今は「インドカリー」のイメージが強い中村屋ですが、もともとはパンやお菓子の老舗でしたから、ボースはここでも大きな功績を遺しています。

鳴海 余談ですが、クリームパンを考案したのが新宿中村屋さんだったんですよね。あんパンとジャムパンは銀座の木村屋さんが考案したことは知っていましたが、クリームパンだけはずっとわからなかったんです(笑)。「中村屋のボース」を拝読して長年の疑問がスッキリしました(笑)。

中島 ありがとうございます。思わぬところでお役に立てたようで嬉しいです(笑)。
 僕の20代は、まさにこの本を書くためにあったと言ってもいいくらい、ボースの軌跡を辿って世界中を歩き回りました。
 インドでは、彼の育った場所や通っていた学校、活動していたおおよその場所も訪れましたし、バンコクやクアラルンプール、シンガポールにも行ってみました。原宿にあった家から新宿中村屋までの通勤ルートも繰り返し歩きました。こうしたところは小学生の時からまったく変わっていないんですが(笑)、彼が見た風景を少しでも追体験することで、何かが見えてくる気がしたんです。

鳴海 先生が「中村屋のボース」を執筆したのは29歳の時で、ボースが来日したのと同い年!ここにも、とても深いご縁を感じますね。

中島 来日した29歳の頃、彼は既に壮絶な人生の渦中にありました。インドがまだイギリスの植民地だった時代に過激な独立運動指導者だった彼の首には、イギリス側から多額の懸賞金がかけられていたんです。
 ボースはインドの独立を獲得するため、身に危険を感じながらも、武力革命に必要な武器と資金を調達するべく海外へ逃亡しました。日本軍とうまく手を結びながら道を開こうとして、結局は挫折してしまうわけですが、当時の僕と同い年で、こうした激動の時代の真っ只中にいた彼の苦悩や葛藤の足跡を辿ることは、現代世界をどう捉えて、これからどう行動すればよいのか?という自分自身への問いかけそのものでもあったんです。

次回の後編では、インドやガンディーについてお話を伺いながら、仏教的な考え方に学ぶ「心身の健康のヒント」を探っていきます。どうぞお楽しみに!!

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