Vol.021 01月 中村天風師に学ぶ、病気に対する考え方
「こころとからだの関係を知る」ことは、健康な心身をつくると同時に、幸せな生活そのものを創造していくことでもあります。
今回は「中村天風師」のおはなしです。
今から130年ほど昔の日本で、後の日本政治経済に大きな影響を与えることになるひとりの男の子が生まれました。名前は中村三郎。後の中村天風です。
人一倍体力にも恵まれ、その高い運動能力を活かして軍事探偵として活躍した三郎は、日露戦争参戦後に、当時不治の病として恐れられていた結核にかかってしまいます。体力に自信があった三郎は、日に日にやせ衰えていくからだをどうにも出来ないまま、死へ向かう恐怖と必死に戦っていました。
気力も体力も限界に近づいてきたある日、こころの支えにしていた哲学書の著者に救いを求めるべく、アメリカへと向かいます。ところが直接会ってみると、描いていた素晴らしい人格者像とはあまりにもかけ離れていたのです。
がっかりしてしまった三郎は絶望の中、帰りの船に乗り込みます。途中で立ち寄った食堂で、少し風変わりなヨガの行者に声をかけられ、自分の悩みを見抜かれてしまった三郎は、そのままその行者についてインドへ渡ります。
この行者こそが三郎が生涯師と仰ぐことになる、インドでも有名なヨガの行者、カリアッパ師でした。
大自然の中で瞑想を続ける三郎に、カリアッパ師は毎日同じ言葉をかけてきます。「調子はどうだね。」三郎も毎日からだの辛さを訴えます。「今日は胸が苦しいです。」「今日は頭が重いのです。」そのたびに「まだまだわかっていないようだ。」と言ってカリアッパ師は去っていきます。
そうして何ヶ月かが過ぎた頃、三郎の中で気付きが起こります。「自分の辛い、苦しいという言葉が、からだを病気にしているのではないだろうか。」そこにカリアッパ師がまたやってきます。「調子はどうだね。」「今朝は何か調子が良いです、いえ、きっとこれからずっと良いと思います。」「卒業する日も近いね。」そう言ってにっこり笑って去っていくカリアッパ師を見て、三郎は言葉とこころがからだに及ぼす影響の大きさを確信したのでした。
こうして3年間の修行を終えた頃には、三郎の結核はすっかり影をひそめ、もとの頑強なからだに戻っていたのでした。
そして帰国後、この時の体験「こころがからだを動かしている」ということを実社会での活動に活かし、銀行の頭取をはじめ複数の大企業の経営に携わり、実業家として大成功を収めた後、自らの体験を全国各地で伝えていきます。
その教えと実績の確かさに、山本五十六や東郷平八郎、原敬、松下幸之助といった後の政界、財界の大物たちが次々と弟子入りをしました。
こうして結核に悩み、一時は世捨て人同然となった三郎は、多くの人たちに影響を与えた昭和の大哲学者、中村天風として戦後の日本復興の立役者となったのです。
天風師の病気に対する考え方
1・目に見える、あるいは感覚的に感じられる高熱や激しい下痢、炎症などに恐怖心を抱かないこと。有害物質が出きってしまえば当然止まるもの、と確信し、安心していること
2・急激に現れた症状そのものを沈静化しようとして、やたらに熱冷ましや、下痢止めなどの薬品を飲まないこと。
3・以上の2点を念頭において、できるだけ経験豊かな、信頼できる医師にかかること(薬物や対処療法重視の医者にはかからないこと)
「まこと急性病は恐れるに足らず、むしろより長く生かさんがための、天からの配剤であれば、一時的には大いなる苦痛はあれど、一過の台風に過ぎず、やがては爽快なる秋晴れがくることを信ずる」 中村天風